先日のこと、農協に用事があってちょっと行った。
待ち時間の暇つぶしに、農協が発行している雑誌である「家の光」を手に取る。
http://www.ienohikari.net/

そういえば祖母がたまに見てたなあなんて思いながら、パラパラとページをめくる。
この雑誌、がんばってる農家さんや郷土料理等を紹介していたりと、ちょっと興味をそそることが載っていたりする。
その中で、元ウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカ氏の記事が目に止まった。
恥ずかしながら私は知らなかったのだけども、ホセ・ムヒカ氏は世界で最も貧しい大統領として有名だとか。


氏は、首都モンテビデオの貧困家庭に生まれる。
2010年に大統領になった後でも豪華な官邸には住まず、報酬の大半を社会福祉に寄付した。
国連持続可能な開発会議(リオ+20)における演説で、現在の消費社会への警鐘を鳴らした。 http://www.nikkeyshimbun.jp/2015/150306-61colonia.html

貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。

発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。


まったくもってその通りだと思う。
原発事故後、細川元首相等、脱成長を掲げる人たちが出てきた。
経済成長の恩恵を受けまくって来た連中が何言ってんだと批判されたが、それはちょっと筋違いではないかと思った。
それは、自分が先輩にイジメられていたから後輩もイジメるみたいな負の部分を連鎖させるものであり、どんどん泥沼にはまっていくだけである。
放蕩三昧の末に神の声を聞いたという、聖フランチェスコの例もある。
先の批判は、散財しまくったやつが清貧とか平和を唱えるんじゃねーって言っているようなものである。
まあ、説得力はともかくとしてね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3


ではやはり脱成長が正しいのか、それは違うと思う。
私達の生活は間違いなく成長の上に立っている。
アフリカ等、1日1ドル以下での生活を強いられているなんて例に持ち出させる人たちは、恩恵を受けるだけの成長が無いためにそんな立場となっている(これについては、もともとお金なんて必要無かった人たちに貨幣文化を強要した側面もあるとは思う)。
でも、例え成長したとしても、この世の春を謳歌できているのはごく一部の人たちだけである。
ほとんどの人は毎日の仕事に追われるだけで、幸福とは程遠い。
さらには、裕福なはずの日本においても貧困問題も噴出してきた。
脱成長ではもっと酷いことになっていたのだと思うが、成長を目指してきた結果こうなっているのだから、これはもう成長の方向が間違っているのではないか。
個人だけでなく人類全体の幸福を求める。そういう視点が無ければ、成長しようが脱成長だろうが、行き着く先はどん詰まりなのではないだろうか。