正義、ウィキペディアによると、
正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。ギリシヤ語の Δικαιοσυνη(dikaiosynee ディカイオシュネー)に由来するものである。
正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義、才能主義、身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。
とある。


正直なんのことだかよく分からない。
何だか煙に巻かれている気がする。
なので個人的意見を。


●宗教が絡む場合の正義

宗教が絡む正義は実に簡単だ。
経典で良しとされていることが正義であり、そうでないことは悪となる。


世界にはキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、その他分派や新興宗教を含めるとそれこそ星の数ほど存在する。
つまりその数だけ正義があるということだ。


例えば誰かが誰かを殺したとしても、それが神の導きによるものであればそれは正義となる。
だから自爆テロだって正義であるし、宗教対立も双方の正義の元に起きているものだ。
対立する双方は正しい。
だからこそ手に負えないし、対立は終わらない。


●無宗教における正義

では無宗教における正義とは何だろうか。
法律を守ること(触れないこと)としたいが、悲しいかな法治国家であるはずの日本は法の下の平等ではない。
その時点で憲法違反なのだが、日本の法は弱いものに厳しく、強いものに甘くできている。
経済も同様で、貧しいものにより厳しくできている。
消費税増税でそれはさらにエスカレートする訳だけれど、それはここでは触れない。


三権分立なんてただのお飾りだ。
だから公平でもなんでもない。


では無宗教における正義とは何か。
それは自己の判断によるものであると思う。
ただしこの自己の判断というのが曲者で、全てどこぞで拾ってきた知識が元になっている。
つまり、どんな教育を受けてきたか(どんな環境に置かれたか)による。
その中で何が正しく、何が間違っているのかを学ぶ。
親がポイ捨てをすればその子どもも平気でするようになる(もしかしたら将来反面教師とできるかもしれないが)。


前回滋賀県大津市のイジメ問題を書いたが、加害者はそれが間違いであることを教えてもらう機会が無かったのかもしれない。
そういう意味では、加害者も現代の社会における被害者であるとも言える。
もちろん行った行為は許されるものではないけども。
http://yukyu.seesaa.net/article/280685424.html


私は、人間は自分が間違っていると思っていることを続けられるほど強い生き物ではないと思っている。
最初は間違っていると思ったとしても、どこかの時点で肯定してしまうからその行為を続けられるのだと思う。


では、無宗教における正義とは何か。
疑わしきは罰する日本の法律において、疑われることをしない、としか言えない。


宗教は否定はしないけれど、私はあまり好きではない。
法律が平等でない無宗教国家の日本において(お金が宗教とも言えるが)、正義は非常に曖昧なものであると言わざるを得ない。
個々に確固たる正義があるわけではないから扇動されやすい。
そして熱しやすくて冷めやすく、極端から極端へと触れがちである・・・。



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