今こんなことを書くと、非国民とか電力会社の回し者とか思われそうだけれどそんなことはない。
もちろんお金ももらっちゃいない。
というか、くれないかな。
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●脱原発派の主張

私がなぜ脱原発に反対なのか、それは脱原発派の言っていることが気に食わないからである。
もちろん脱原発派だって一枚岩ではないだろうが、基本的に言っていることは「危ないから廃炉にしろ」だ。
当然のことじゃないかって?
果たしてそうだろうか。


古来より人間は危険なものの危険な部分を克服することで、それらが持つ便利な部分を使ってより便利に、より快適にを目指してきた。
代表的なものは火だろう。
火を発見したのは偶然だと言われているが、どうやったら安全に使えるのか試行錯誤してきたはずだ。
扱いを間違えれば大惨事になることは言うまでもない。


「危険だからやめろ」と言うことは、そんな人間の性のようなものを否定することになるのではないかと思うのだ。
火力発電所や化学プラント、石油の精製工場だって非常に危険な代物だ。
もちろん一度事故が起きた際の事故の深刻さや、影響が長期化するなど直接比べられはしないが。


今後エネルギーの分野は核融合やフリーエネルギー、反物質などのSFチックなものにすら及んでいくことだろう(そこまで人類が衰退していなければ)。
それこそ扱いを間違えれば星一つ吹っ飛ぶことになるかもしれない。
それでも人はやろうとするのではないかと思う。
それが人間の性だからだ。


●原発推進派の問題

私は脱原発派には反対だが、だからといって原発推進派を擁護するわけではない。
それは原発事故の根幹部分を直せていないからだ。


3.11の原発事故の発端であり、日本の原発における一番の悪は「安全神話」だ。
テレビなどを見ていると、安全神話が「できてしまった」、という話が出てくるがそんなことはない。
「作った」が正解だ。
なぜそれが言い切れるのか。
もっと人間の根幹、感情に照らせば分かることだ。
つまり安全神話を作った理由は「原発から甘い汁は吸いたいけど、面倒くさいことはしたくないよね」だ。


工場などで一番面倒なのは安全関連の設備だ。
手間がかかる上に金はかかり、そして利益は生まない。
絶対必要だがあまりやりたくはないことだろう。
しかも原発はそれが多岐にかつ広範囲に渡る。
相当に面倒くさいのは想像に難くない。
だから安全神話を作った。
そういう体質を変えない限り、とても原発の推進派には賛同はできない。


●脱原発派も原発推進派も大して変わらない

向いている方向は真逆とは言え、脱原発派も原発推進派もやっていることは大して変わらないと思う。
それは、脱原発をすること、または原発を推進することでのリスクを説明していないことである。


このままの体勢で原発を推進することのリスクは、やはり安全神話を野放しにしていることだろう。
このままではまた同じことが起きるだろう。
もちろん推進派はそんなことは言わない。


脱原発派のリスクは、電力が不足することを電力会社のウソだとしていることだ。
もちろんウソであればそれにこしたことはない。
だが、ウソでなかったらどうだろう。
度々の停電で工場はオチオチ稼働していられない。
データは吹っ飛ぶ。
今日頼めば明日品物が届くなどはもうできない。
そういうことができなくなる可能性、それが及ぼす影響などを説明しているだろうか。


メリットばかりを言ってデメリットは説明しない。
双方高額商品を売りつけようとするセールスマンみたいだ。
極端から極端に行って良かったことなど無い。


●これからの原発

では、原発はこれからどうするのが良いのか。
私は、新たな原発の更新はせず、すこしずつ無くしていくのが良いと思う。
なくなった分は風力や太陽光などの自然エネルギーに転嫁させる。
そのくらいの時間はあると思われる。
日本が環境大国になれるチャンスである。


こういう時は多方面の知識が役に立つ。
モータージャーナリスト、下野康史さんがいろいろなものを運転する試乗記。
中に原発の運転がある。
場所は奇しくも福島第一原発だ。
その後まさかこんなことになろうとは思いもしなかっただろう。


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