現代のベートーヴェンとしてもてはやされた佐村河内守氏が、実は自分で作曲はしていなかったことが発覚した。
18年間に渡りゴーストライターを務めていた新垣隆は、その世界では知らぬ者のいないスゴイ人なのだとか。



個人的には、音楽を聞いて感動したのであれば、誰が作っていてもいいと思う。
それは作った人が違っていても、本物だからである。
自分に当てはめてみれば、私がよくCDを買っているパット・メセニーさんや村松健さんが、実は自分で曲を作っていませんでした、なんて話が出てきたら、そうなの?って思うだけで、金返せなんて思うわないだろう。
それがどうしようもないものであれば金返せと思うけども、聞いて良かったと思ったのは他ならぬ自分であるし、そう思わせる音楽というのは誰が作っていようと本物だからだ。



ではなぜ、佐村河内守氏は耳が聞こえないというエピソードが必要であったのか。
もちろんそれは売るためである。
この音楽は耳が聞こえない人が作ったものである、というバイアスをかけて感動の水準を下げることで、多く売ろうとしたわけだ。
ものを評価するときは、それそのもので行い、できるだけ余計なバイアスは排除して考えるべきだと思う。



●これは24時間テレビを同じ構図


こういうことを考えた時にパッと浮かんだのがパラリンピックと24時間テレビである。
24時間テレビはハンデキャップを持った人に登山などを行わせ、感動を誘って寄付を引き出す。
普通の人であればなんでもないことを、ハンデキャップを持っている人がやるというバイアスをかけて感動を引き出す手法は、今回の件とまったく同じといえる。
ちなみに、私富士山登山で死ぬ目に合いました。
富士山はなめてかかっちゃいけません。



そしてパラリンピックだが、あれは単純にスゴイことである。
ハンデキャップをもっているというバイアスがなくても、正直私よりもスゴイことをやっている。
もしかして同じ土俵の上でたたかえば(各種制約のついた競技)オリンピック選手とでも互角に渡り合えるのではないだろうか。



誰がなんといおうと、感動的なエピソードがあろうとなかろうと、自分がどう思うかが大事なのだと思う。
マスコミに踊らされたってなんの得もありゃしません。



少し乱暴な言い方かもしれないが、偽物に騙される人はそもそも本物を持つ資格なんてないのではないだろうか。
どうせ本物を持っても分からないのだから。

もちろん偽物を作るということ自体がダメなのだけども、本物と偽物の違いが金の多寡でしかないというのはちょっと違うと思うのだ。


で、こういうゴーストライター騒ぎがあって、「交響曲第1番“HIROSHIMA」が売れているのだという。
確かに、世間が絶賛し、地に落とされたものがどんなものか聞いてみたい気もわかるが、こうなるともうなんだかなあとしかいえない・・・。


というわけで、交響曲第1番“HIROSHIMAを。









私はクラシックには明るくないけども、悲劇から感動へのエピソードは非常にわかりやすいものであり、音楽自体もいいと思う。
後半の静かな感じはけっこう好みだ(マーラーと似てるなんて話もあるけども)。



ところで、佐村河内守さんが作曲したとされる、ゲーム鬼武者のCDSが、アマゾンでスゴイ値段になっていて笑った。
ホント、値段で本物か偽物かではなく、需要と供給なんだなと思った。



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